ゲルハルト・ベルガー 目次 性格・特色 略歴 引退後 ドライビング F1で優勝したレース 主なエピソード F1での年度別成績 脚注 関連項目 外部リンク 案内メニューゲルハルト・ベルガー、シングルシーター委員会の新議長に就任ドメニカリがシングルシーター委員会委員長にベルガーがスキー事故で骨折「今日の一枚」カッコ良すぎるラウダ、ベルガーに想う偉大な小国DTM運営組織のITR e.V代表が交代。ゲルハルト・ベルガーが新チェアマンに就任土壇場でプロストが後ろに。セナ葬儀のエピソードゲルハルト・ベルガーBerger Logistik33 Rennen Formel 1Porträt Gerhard BergerNie Weltmeister, aber am meisten ...編歴編歴編歴編歴編歴編歴WorldCat Identities1191350270000 0001 1493 2122no95051977c1e9b751-8168-488f-a0e7-aa725f4811680046314069732469
オーストリアのF1ドライバーアロウズのF1ドライバーベネトンのF1ドライバーフェラーリのF1ドライバーマクラーレンのF1ドライバーF1チームオーナーF1関係者チロル州出身の人物1959年生存命人物
1959年8月27日オーストリアチロル州ヴェルグルF1アイルトン・セナリカルド・パトレーゼプレイボーイチロルヘルムート・マルコニキ・ラウダBMWオーストリアGPイタリアGPマンフレッド・ヴィンケルホック南アフリカGPオーストラリアGPサンマリノGPベルギーGPフロントローファステストラップメキシコGPアラン・プロストナイジェル・マンセルネルソン・ピケエンツォ・フェラーリミケーレ・アルボレートポルトガルGPPP日本GPポールトゥーウィンオーストラリアGPイギリスGPフランスGPイタリアGPジャン=ルイ・シュレッサーサンマリノGPメキシコGPポルトガルGPアメリカGPカナダGPネルソン・ピケオーバーレブポルトガルGPスペインGP日本GPミハエル・シューマッハ鈴鹿サーキットウィリアムズ南アフリカGPカナダGPオーストラリアGPブラジルGPマイケル・アンドレッティモナコGPジャン・アレジデイモン・ヒルイタリアGPポルトガルGPアクティブサスペンションデレック・ワーウィック日本GPドイツGP塩原恒夫サンマリノGPローランド・ラッツェンバーガーモナコGPGPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)FIAカール・ヴェンドリンガーブラジルGPデビッド・クルサードハンガリーGPベルギーGP1996年ドイツGPエンジンブローブラジルGP慢性蓄膿症カナダGP飛行機ドイツGPジョーダンジャンカルロ・フィジケラオーストリアGPオーストリアGPヨーロッパGP1999年ウィリアムズ2003年2006年レッドブルスクーデリア・トロ・ロッソレッドブル・レーシング2008年11月25日ディートリヒ・マテシッツ2011年国際自動車連盟2013年FIA F4ジュニア・フォーミュラステファノ・ドメニカリ2014年2017年3月21日ドイツツーリングカー選手権鈴鹿サーキットロドリゲス・サーキットモンツァホッケンハイム川井一仁アメリカGPポルトガルGP1990年のカナダGP日本GP1995年のイタリアGP川井一仁ソニー・マガジンズ
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ゲルハルト・ベルガー
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ゲルハルト・ベルガー | |
---|---|
ベルガー (1991年アメリカGP) | |
基本情報 | |
国籍 | オーストリア |
出身地 | 同・チロル州ヴェルグル |
生年月日 | (1959-08-27) 1959年8月27日(59歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1984-1997 |
所属チーム | '84 ATS '85 アロウズ '86,'96-'97 ベネトン '87-'89,'93-'95 フェラーリ '90-92 マクラーレン |
出走回数 | 210 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 10 |
表彰台(3位以内)回数 | 48 |
通算獲得ポイント | 385 |
ポールポジション | 12 |
ファステストラップ | 21 |
初戦 | 1984年オーストリアGP |
初勝利 | 1986年メキシコGP |
最終勝利 | 1997年ドイツGP |
最終戦 | 1997年ヨーロッパGP |
ゲルハルト・ベルガー(Gerhard Berger, 1959年8月27日 - )は、オーストリア(チロル州ヴェルグル)出身の元F1ドライバー。「ガーハード・バーガー」等の表記がなされることもある。愛称は「ガーディ」。フジテレビF1中継でのニックネームは「地獄からの帰還兵」「第二のニキ・ラウダ」。
目次
1 性格・特色
2 略歴
2.1 F1
2.1.1 ATS時代
2.1.2 アロウズ時代
2.1.3 第1期ベネトン時代
2.1.4 第1期フェラーリ時代
2.1.5 マクラーレン時代
2.1.6 第2期フェラーリ時代
2.1.7 第2期ベネトン時代、引退
3 引退後
4 ドライビング
5 F1で優勝したレース
6 主なエピソード
7 F1での年度別成績
8 脚注
9 関連項目
10 外部リンク
性格・特色
明るい性格で知られ、人望を集め多くの友人を持つ。友人が少ないことで知られていたアイルトン・セナとも、最大の親友とされる。
通算10勝は歴代チャンピオンドライバーと比べると劣るものの、その多くが印象に残る状況で挙げられたことから「記録よりも記憶に残るドライバー」の一人としてよく名前が挙がる。かつては「Rの付く月にしか勝てない(5月から8月には勝てない)ドライバー」といった異名もあった。またF1ドライバーとしてキャリアは13年と比較的に長く、グランプリには通算210戦出走した。これは彼が引退した1997年当時、リカルド・パトレーゼの256戦に次ぐ歴代2位の記録だった。
現役時代はプレイボーイとしても知られ、女性のファンも多かった。
チロル地方出身で、学生時代はオーストリアのアルペンスキー強化選手としても活躍した。
略歴
F1参戦前からDr.ヘルムート・マルコやニキ・ラウダと言った先輩たちの推挙、応援があり「BMWの秘蔵っ子」と呼ばれ、デビュー直後も縁の深いチームへの在籍が続くことになる。
F1
ATS時代
- 1984年
シーズン終盤、母国の第12戦オーストリアGPにおいて、当時BMWエンジンを搭載していたATSからF1デビュー、予選20位から12位完走を果たす。自身2戦目の第14戦イタリアGPで6位初入賞を果たすが、チームは元々マンフレッド・ヴィンケルホックのみの1カー体制としてこの年の登録をしていたため、ポイントは獲得できなかった。
アロウズ時代
- 1985年
前年のATS同様、BMWエンジンを積むアロウズに移籍。リタイヤ7回を記録するなど苦戦、後に本人はこの年のマシンを「F1でドライブした中で最低のマシン」と評している。ただし、第15戦南アフリカGPで5位、最終戦オーストラリアGP6位と終盤に連続入賞を記録した。ランキングは17位。
第1期ベネトン時代
- 1986年
過去2シーズンと同様にBMWエンジンを積むベネトンに移籍。開幕からの連続入賞や、第3戦サンマリノGPで初表彰台、第5戦ベルギーGP予選でのフロントロー、計2度のファステストラップなどで存在をアピールした。第15戦メキシコGPでは、タイヤ無交換作戦が当たり[1]、デビュー3年目(フル参戦2年目)にして初優勝。これはチームにとってもF1初優勝であり、この年チャンピオン争いを繰り広げた4人(アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、ネルソン・ピケ、アイルトン・セナ)以外が挙げた唯一の勝利でもあった。ランキングは7位と前年からさらに上昇した。
第1期フェラーリ時代
- 1987年
フェラーリに移籍、結果的にエンツォ・フェラーリの存命中にフェラーリに加入した最後のドライバーとなった。マシンの信頼性が低く、チームメイトのミケーレ・アルボレート共々多数のリタイヤを喫したが(計9回、全てマシントラブルによるものだった)、チャンピオン争いも経験しているアルボレートに伍して戦い、次第に新エースとして評価を高めていった。
第12戦ポルトガルGPで初PP(決勝は2位)。第15戦日本GPでは自身初のポールトゥーウィンを達成、低迷していたチームに2年ぶりの勝利をもたらす。さらに続く最終戦オーストラリアGPでもポールトゥーウィンを達成し、ランキングを前年より更に向上させ5位で終える。
- 1988年
フェラーリに残留、この年はマクラーレン・ホンダが圧倒的な強さを見せたシーズンとなった[2]が、そんな中でも多くのGPにて、予選でマクラーレン勢の真後ろである3位グリッドをキープしており、また昨年に比べてマシンの信頼性が大幅に向上したため、コンスタントに入賞していた。また第8戦イギリスGPでは、この年マクラーレン勢以外で唯一となるPPを獲得している。加えて、予選でアルボレートに全勝し、決勝でも先行を許してゴールしたのは第7戦フランスGPのみであった。
エンツォ・フェラーリが死去して間もない時期に開催された第12戦イタリアGPでは、トップを快走していたアイルトン・セナが、残り2周で周回遅れのジャン=ルイ・シュレッサー(このGPだけのナイジェル・マンセルの代役)と接触しストップ。2位にいたベルガーが、フェラーリの地元GPにて最後の最後で繰り上がるかたちで「弔い合戦」を制した。この際、2位にはチームメイトのアルボレートが入り、チームとしては1-2フィニッシュとなったこと、結果的にこの年マクラーレン勢以外が記録した唯一のものとなったことなども、「記憶に残る勝利」として挙げられる要因となった。
優勝以外でも4度の表彰台を記録するなど、実質的なチームのエースとして活躍。ランキングではマクラーレンの二人に次ぐ自身最高となる3位に入った。
- 1989年
引き続きフェラーリに在籍する。第2戦サンマリノGPでは、フロントウイングのトラブルに見舞われ、高速コーナーのタンブレロでコースアウト、そのままウォールに激突した。レース序盤でガソリンが多量に残っていたこともあって、大破したマシンが炎上したが、コースマーシャルの迅速な消火・救出作業により、ベルガー本人は顔や手の軽い火傷のみで済み、第4戦メキシコGPには復帰した。この炎上事故が発生したことで、後に燃料タンクの搭載位置に関するレギュレーションが変更されることになった。
参戦した15戦中12回のリタイヤだったが、完走した3戦ではすべて2位以上であり、第13戦ポルトガルGPでは自身5勝目をマーク。ランキングでは7位に踏み留まったが、チーム内の主導権を新チームメイトのナイジェル・マンセルに奪われ、フェラーリとの関係に一旦ピリオドを打つことになった。
マクラーレン時代
- 1990年
アラン・プロストと入れ替わる形でマクラーレンに移籍、アイルトン・セナのチームメイトとなる。移籍初戦の開幕戦アメリカGPでいきなりPPを獲得してみせたが、決勝ではペダルに足が挟まってクラッシュし早々と首位戦線から離脱。その後、データを取るために数周遅れになりながら復帰するが、最終的にリタイヤに終わった。第5戦カナダGPではスタートでフライング、タイム1分加算のペナルティを受け、チェッカーはトップで受けながら4位となった。その後も彼より10cm以上小柄なセナにあわせて作られたマシンに苦しみ続け(後述)、PP計2回・FL3回と速さは見せながら、5年ぶりに未勝利に終わる。
ただし2位2回・3位3回等、16戦中10回入賞とポイントは手堅く稼ぎ、ランキング4位に入った(ネルソン・ピケと同ポイントだが、2勝した為ピケが3位とされた。データによってはベルガーも3位とされており、この場合自身最高タイとなる)。
- 1991年
マクラーレンに残留するが、この年から実践投入したホンダV12エンジンのトラブルが、ベルガー車に偏って多発。リタイヤはセナの1回(2度の完走扱いを除いて)に対しベルガーは7回、そのうち6回がエンジントラブルだった。ベルガーのエンジンばかりが壊れたことに対しては、「エンジンがオーバーレブに弱かったのでは」という、「セナと比較すると、ベルガーはオーバーレブが多い」ということに注目した説がある[3]。またベルガーはセナに比べマシンのエンジニアリング面に対する関心が薄く、きちんとエンジニアの説明を聞いていないことが多かったことも影響していたのではないかという意見もある[4]。
しかし終盤に近付くにつれ調子を上げ、第13戦ポルトガルGP・第14戦スペインGPでは共にリタイヤとなったものの、予選では連続でセナを破っていた。第15戦日本GPでも、予選で1分34秒700のコース・レコードを叩き出し、スペインGPに続いてPPを獲得(このタイムは、シケインの改修でコース距離が短くなった2001年に、ミハエル・シューマッハによって破られるまで、10年あまり鈴鹿サーキットのコースレコードだった)。決勝では、終盤エキゾーストパイプが割れるトラブルがあったもののポールトゥーウィンを飾り、ようやく移籍後の初勝利を挙げる。ただし、これはレース序盤のマンセルのリタイヤによってワールドチャンピオンを決めたセナが、最終ラップの最終コーナーでトップの座を露骨に譲るという行為によるものであり、プライドの高いベルガー本人は不快感を示したとされ、後に「(セナの急激なペースダウンを見て)トラブルが発生したと思っていたが、もし最後に先行させようとしていると分かっていたら、自分もアクセルを踏むのをやめていただろう」と語ったこともある。マクラーレンのドライバーの間でレース前に「序盤にトップに立った者が優勝を得る」という約束が取り交わされており、レースにおいて当初トップに立っていたベルガーをセナが抜いて突き放し、最後に再び前に出した経緯が、問題を複雑化させる結果となった。この年もランキングは4位だった。
- 1992年
前年より、既に純粋な速さにおいてマクラーレンはウィリアムズの後塵を拝す場面が多かったが、この年はそれが決定的なものとなる。チームの低迷と共にベルガーはセナともども不本意なシーズンを送ることとなる。移籍以降、2年連続で計2PPをマークしていたが、この年のベストグリッドは開幕戦南アフリカGPの3位と、フロントローにすら並ぶことが出来なかった。
しかし、そんな中でも第7戦カナダGPと最終戦オーストラリアGPで優勝し、1987年以来、5年ぶりのシーズン2勝を記録した。特に、オーストラリアGPでの優勝は、「第2期ホンダ最後のレースでの優勝」として注目された。このレースでは、終盤に燃費と水温上昇の関係で大きくペースを落とす羽目になり、ゴール時には2位のシューマッハがすぐ背後にまで迫っている状態であった。ランキングは前年から下がり5位だったが、獲得ポイント数では49ポイントでシーズンの自己最高となった。
第2期フェラーリ時代
- 1993年
低迷期にあえぐフェラーリに4年ぶりに復帰するが、不可解な場面で話題に挙がることの多いシーズンとなる。第2戦ブラジルGPで予選13位でありながらも好スタートを切るが、マイケル・アンドレッティと大クラッシュしてまい、0周リタイヤ、第6戦モナコGPでは、チームメイトのジャン・アレジを半ば突き飛ばすように強引に追い抜き、その後デイモン・ヒルにも強引な追い抜きを試みた結果、接触しリタイヤ。この際、後方にいたマイケル・アンドレッティも巻き添えでリタイヤし、ヒルもリタイヤは免れたものの大きく遅れる結果となった。第13戦イタリアGP予選では、セッション終了後にもかかわらずアタックを続けアレジと絡みかけ、避けたもののスピンを起こし大クラッシュ。第14戦ポルトガルGPでは、アクティブサスペンションのトラブルから、ピットアウト直後に突然マシンのバランスを崩し、コースを横断するかたちでクラッシュしリタイヤ(この際、あわやデレック・ワーウィックを巻き込みかけている)。
第15戦日本GP予選で一時暫定PPに躍り出るなどの見せ場もあったが、総獲得ポイントは12ポイントに留まった(ランキング8位)。
- 1994年
第9戦ドイツGPで低迷していたチームに、4年ぶりの優勝をポールトゥーウィンでもたらし、再び人々の記憶に刻まれることとなる(フジテレビF1中継では、このGPの実況を担当していた塩原恒夫が、「2度フェラーリを復活させた男」と表現した)[5]。ドイツGPを含め予選では2PP、決勝では表彰台6回(1勝・2位3回・3位2回)などを記録、自身3度目のランキング3位となった。
また、それ以上にコース外での活動も人々の耳目を集めた。第3戦サンマリノGPにて、予選2日目にローランド・ラッツェンバーガー、翌日の決勝日にセナが事故死[6]したことを受け、2週間後の第4戦モナコGPにて、それまで有名無実化していたドライバーによる組合GPDA(グランプリ・ドライバーズ・アソシエーション)を復活させ、その重鎮として、安全面についてFIAとの間にドライバー側からも積極的に話し合いを持つことを提唱した。
直後のフリー走行にて、ラッツェンバーガー同様に同胞のカール・ヴェンドリンガーが、クラッシュにより一時意識不明の重体となる程の重傷を負い、その後も事故が相次ぐシーズンとなった。F1界は大きな衝撃を受け、ベルガー自身も精神的ショックから引退が噂されたが、その後も今後の道筋を説き実践した。
- 1995年
開幕戦ブラジルGPにて一旦1位のシューマッハと2位のデビッド・クルサードが失格とされ、3位に入ったベルガーが優勝とされたが、その後取り消し。それでも第10戦ハンガリーGPまでは3位表彰台6回など7回の入賞と安定した成績を残し、第11戦ベルギーGPではこの年唯一のPPをマークした。しかしこのGPでリタイヤに終わると以後は成績が下降、結局この年は未勝利に終わった(ランキング6位)。
シーズン終了後、当時フェラーリでチームメイトだったアレジと2人一緒にベネトンに移籍。この時ベネトンからミハエル・シューマッハが入れ替わりでフェラーリに移籍したため「2対1の交換トレード」として話題になった。
第2期ベネトン時代、引退
- 1996年
ベネトンへ10年ぶりに復帰した1996年は、「シューマッハ・スペシャル」と呼ばれるマシン特性に苦労し、シーズン序盤から調子が上がらなかった。そんな中第11戦ドイツGPは、この年ベストグリッドとなる予選2位からスタート、決勝でもスタートを決めて最終盤までレースをリードするが、残り3周というところでエンジンブローに見舞われ勝利を逃した(13位完走扱い。この時、レースを制したのは3年前の同じGPの同じ残り3周というところでタイヤバーストに襲われたデイモン・ヒルだった)。結局この年はこのレースがハイライトとなる(ランキング6位)。
- 1997年
この年も苦戦を強いられ、第2戦ブラジルGPで2位に入るなど結果も残したが、予選で多くのGPで2桁グリッドに沈んだ。更に慢性蓄膿症のため、第7戦カナダGPから3戦の欠場を余儀なくされ、この間に父親を飛行機の墜落事故で亡くすなどの不幸が重なったこともあり、引退がささやかれる中で復帰戦・第9戦ドイツGPに臨んだ。このレースで、ベルガーは2年ぶりのPPを獲得、決勝でもフル参戦1年目・ジョーダンのジャンカルロ・フィジケラの躍進もあったが、終わってみればFL・そして優勝と、PPも含め全てを独占する完勝劇を演じてみせ、再びファンや関係者に強いインパクトを与えた。結果的にこれが最後の優勝・表彰台となる。
また、1987年を最後に途絶えていた地元オーストリアGPの開催に尽力、第14戦として10年ぶりにオーストリアGPの開催にこぎつけた。しかし、このレースでベネトンはマシンバランスに苦しみ、ベルガーも10位完走が精一杯であった。結局、同年のシーズン終了間際にF1からの引退を発表。この際、本人は「休養」と表現した。現役最後のレースとなった最終戦ヨーロッパGPは4位、この年のランキングは前年より上の5位であった。
引退後
ドライバー引退後は1999年からBMWのF1参戦にモータースポーツディレクターとして関与し、エンジン供給先のウィリアムズとの仲介役を務めた。2003年9月に家業である運送会社(ベルガー運送)の再建を手伝うためとして同職を辞任。
2006年2月、自身が所有する運送会社の株式50%をレッドブル社に譲渡し、合弁会社を設立。これにあわせ、F1チームのスクーデリア・トロ・ロッソの株式50%をレッドブル社との交換により取得し、共同オーナーとなる。それと同時に、レッドブル・レーシングも含め、レッドブルのF1活動全般についてのアドバイザーという形で、再びF1の世界に戻った。2008年11月25日にベルガーが所有するトロ・ロッソの株式をディートリヒ・マテシッツに売却することを発表した。
以後暫くの間モータースポーツ界から離れていたが、2011年12月に国際自動車連盟(FIA)・シングルシーター委員会の委員長に就任、モータースポーツの表舞台に復帰した[7]。シングルシーター委員長としては2013年にFIA F4構想を公表するなど、いわゆるジュニア・フォーミュラに属するカテゴリの再編を狙う施策を打ち出した。2014年12月に委員長の職をステファノ・ドメニカリに譲り退任した[8]。
2014年3月、スキー事故で上腕を骨折[9]。この影響で握力が大きく低下し、ドライビングには問題はないものの、ペンを握るのも困難な他レーシンググローブをはめるのにも他人の手を借りる必要があるほどになってしまった[10]。
2017年3月21日、ドイツツーリングカー選手権(DTM)を運営するITR e.Vの代表への就任が発表された[11]。
ドライビング
ベルガーの速さの魅力として、高速コーナーでの天性のスピード感覚が挙げられる。これはチームメイトのセナも認めた部分であり、実際に日本の鈴鹿サーキット、メキシコのロドリゲス・サーキット、イタリアのモンツァ、ドイツのホッケンハイムなどの高速コースで勝利を飾っている。また、鈴鹿サーキットの130Rでは唯一全開にできたドライバーとされ[要出典]、1991年の予選で記録したポールタイムは2001年のコースレイアウト改修後にミハエル・シューマッハが更新するまで10年間にわたり鈴鹿サーキットのコースレコードであった。反面、低速での走行が求められるコースやコーナーを苦手にしており、1992年日本GP開幕直前に出演した番組では川井一仁からの「不得意な所はありますか?」という問いに対し、「とにかく低速コーナーが大嫌いなんだよ」と即答し、「こういう所(低速コーナー)に来ると我慢出来なくなるんだ、大の苦手だね」と発言している。一時期「多角形コーナリング」にトライしたこともあったが、その効果は実証されるほどではなかった。トップレベルの実力者ではあったが、コンスタントに速さを発揮できるタイプではなかった。
終盤戦のレースには非常に強く、6月に開催だった1992年のカナダGPで優勝するまでは、すべて9月以降の開催のレースで優勝していた。また、シーズンの獲得ポイントの半分以上を9月以降の開催だったレースだけで獲得したシーズンもいくつかあった。その中でも特に、1985年と1989年のシーズンは、獲得ポイントすべてが9月以降の開催のレースのみでポイントを獲得していた。そのため、一部のF1関係者からは「秋男」といわれていたこともあった。
マシンの好みは、コントローラブルなマシンを好むとされ、ベネトン移籍時のテストでは同僚のアレジが乗りこなせていた「シューマッハスペシャル」のピーキーなマシンに手を焼くこととなった。
1987年、1988年のマニュアル時代のフェラーリでは「クラッチレス走法」と呼ばれる走法でチームメイトのミケーレ・アルボレートを上回る成績を残した。
また、マクラーレン移籍時には身長185cmとF1ドライバーとしては長身の体がハンディとなった。身長174cmのセナに合わせて作られたコクピットはベルガーには狭すぎ、移籍初戦のアメリカGPでは2位走行中ペダルに足が挟まり単独クラッシュしている。
また、勝てる位置につけながらミスや不運で逸したレースが幾度かあり、1987年のポルトガルGPではトップ走行中に単独スピンし、プロストに当時の通算最多勝新記録更新(28勝)を贈っている(スピンの原因については、後方から接近するプロストのプレッシャーがブレーキングミスにつながったと自伝の中で語っている)。1990年のカナダGPでは、マクラーレン移籍後初の快走を見せトップでチェッカーを受けたもののフライングが発覚・決勝タイムに1分加算されるペナルティを受け優勝を逃した。同年の日本GPでは、セナとプロストがスタート直後の第1コーナーで絡んで両者リタイアした後、次の周の1〜2コーナーで、単独スピンコースアウトしリタイヤ。ベルガーは、自分のミスを恥じピットに帰らず、ホテルに直帰したという。地元レースとなるホンダ陣営は、スタート後わずか数分でレースを終える羽目になった。1995年のイタリアGPでは、同僚アレジの背後に着けワンツー走行中、アレジ車から落下した車載カメラが直撃してリタイアという出来事もあった。
F1で優勝したレース
10勝全てが、ある条件における初勝利、最後の勝利、久しぶりの勝利または唯一の勝利に該当する。故にこれらは「記憶に残る勝利」と評される。
- 初優勝…1986年メキシコGP - 自身の初優勝が、ベネトンチームにとっての初優勝、また同時に2001年にラルフ・シューマッハが記録するまでBMWエンジンにおける最後の優勝。
- 2勝目…1987年日本GP - 低迷していたフェラーリにとって、1985年ドイツGP以来となる2年ぶり・37戦ぶりの勝利。自身初のポールトゥーウィンでもある。
- 3勝目…1987年オーストラリアGP - 1981年モナコGP-スペインGP以来、6年ぶり・104戦ぶりとなるフェラーリの連勝であり、自身にとって唯一の連勝。同時に自身初のハットトリック、更に全周回1位で自身唯一となるグランドスラムも記録。
- 4勝目…1988年イタリアGP - エンツォ死去直後に地元での1-2フィニッシュ。またこの年マクラーレン勢以外での唯一の勝利。
- 5勝目…1989年ポルトガルGP - 参戦した15戦中12戦リタイヤというシーズンの中、完走した数少ないレースで挙げた勝利。
- 6勝目…1991年日本GP - 最終ラップの最終コーナーで、セナに露骨に譲られた形でのマクラーレン移籍後初勝利。
- 7勝目…1992年カナダGP - チームメイトのセナや当時、コンストラクターズポイントランキング独走中のウィリアムズ勢がリタイヤする中、着実なレース運びで2年前のリベンジを果たす。自身初めて9月以降の開催でないレースで勝利し、また、マクラーレン移籍後自力で得た初の勝利でもある。
- 8勝目…1992年オーストラリアGP - ホンダの2期活動における最後のレースで優勝。2006年にジェンソン・バトンが勝利するまで、ホンダエンジン最後の優勝であった。
- 9勝目…1994年ドイツGP - 低迷を続けていたフェラーリにとって、1990年スペインGP以来となる4年ぶり・59戦ぶりの勝利。自身2度目のフェラーリ復活の勝利。
- 10勝目(最終優勝)…1997年ドイツGP - 3戦欠場後、復帰レースでの完全勝利。自身最後の勝利が、ベネトンチームにとっても最後の優勝。さらにポールポジション、ファステストラップも記録し、最後の優勝はハットトリックで占めた結果となった。
主なエピソード
この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2007年8月) |
いくつかのエピソードは、川井一仁著『F1ワハハ読本』1〜3(ソニー・マガジンズ)に、漫画として掲載されている。
1985年、ツーリングカーのBMWチームで同僚だったロベルト・ラヴァーリアとレンタカーに同乗中、ラヴァーリアが運転中の車のキーを突如引き抜く。二人が乗る車は道路脇の土手にぶつかるまで止まらなかった。
1986年のベネトン在籍時のこと、180cmを越える長身があだとなりレース中にヒジやヒザをコックピット内壁に強打することが多かったベルガーを見かねたチームスタッフは、ベルガーにニーパッドとエルボパッドを付けさせてレースに出走させていた。
1989年、炎上事故により入院するハメになったが、病室を訪れた取材陣の前でマクラーレンのステアリングを握りながら大あくびをするパフォーマンスを披露する。
1990年第3戦サンマリノGPにて首位を走行中、ヴィルヌーヴ・コーナー手前でフェラーリのマンセルに抜かれそうになったとき、突然幅寄せをしてマンセルをコースから追い出す。マンセルはとっさに360度スピンを成功させレースを再開、ベルガーを猛追するが3周後にエンジントラブルでリタイア。この一件でマンセルは「これほど頭にきたことは一生の中で一度だってない」と激怒した。マンセルの高度な操縦技術により大事には至らなかったものの、ベルガーの行為は相当に危険であった。- セナ、マクラーレン関係
- 1990年マクラーレンに移籍した際、ベルガーの悪戯好きを知るスタッフが「セナは神経質で気難しいから、あいつにだけはイタズラはするな」と釘を刺した。にもかかわらずメキシコGP開催中、ホテルのセナの部屋の各所に腐った魚とチーズを隠しておいた。
- モンツァ上空でヘリからセナのアタッシュケースを投げ捨てたエピソードは有名である。なおケースは地上のセキュリティによって回収されており、ヘリの着陸後すぐに「完全に壊れた状態で」セナの元へ届けられている[12][13]。
- 1991年にメキシコグランプリ後の休暇中、ロン・デニスとその夫人、セナとフロリダ州のワニ園を見学中、ワニが見える橋の上からデニスを沼に突き落とし、「助けてくれ!」と叫びながら這い上がろうとするデニスをセナと共謀して足蹴にしつつ、助けることと引き換えに翌年の年俸アップを要求した(実際には落とした場所はワニがいないはずの場所だと二人は知っていた)。
- 1992年南アフリカGP後、セナのパスポートの顔写真の部分をこっそり女性のヌード写真にすり替えておいた。セナは空港でチェックされるまで気付かず、空港で数時間立ち往生する羽目になった。その報復として、セナ(とロン・デニスの共謀)によって財布に穴を開けられ、ボルト締めされた状態でホテルのフロントに「お届け物」として放置される。この財布、紙幣やクレジットカードが入ったままドリルでど真ん中を開けられ、デニスのサインがしてあった。
- 1992年頃にはホテルのセナが泊まっている部屋を鍵穴を使って消火器で泡だらけにしたこともある。
1993年、オーストラリアグランプリ、前戦日本GPで起きたエディ・アーバインとの事件をネタにセナの車の上にボクシングのグローブを置いてからかう。- 前述のように、セナは神経質かつ気難しい性格(セナに限らず、チャンピオンレベルのドライバーはたいてい気難しいといわれる[独自研究?])として知られていたが、そんなセナにイタズラの数々を仕掛けては許され、ワニ園のケースではイタズラの仲間に抱き込んでしまったことに対しては、ベルガーの人間性を示しているとの意見もある。
- 1992年のポルトガルGPで、最終コーナーの立ち上がりでリカルド・パトレーゼが直後を走行していたのにもかかわらず、ピットインのため合図もなくスローダウンする。パトレーゼの車はベルガーのリアタイヤに接触し空を舞うが、間一髪無傷ですんだ。怒ったパトレーゼにベルガーは「今度ピットに入るときは君の家に電話をするよ」と言った。
- 1992年、鈴鹿でロードカーマクラーレンF1 GTRの発表会が行われた際、ロン・デニスが運転する同車に同乗。ところが車は1周目の1コーナーで飛び出し、サンドトラップで止まってしまう。うなだれるデニスを、自分がリタイアした時にいつも言われる言葉、「次があるじゃないか」と言って皮肉る(一説では、マシンが止まった原因はベルガーがパーキングブレーキを引く悪戯をしたためとも言われている)。その後ジャーナリスト達がこの件のコメントを取りに来たところ、「ロンのアクセルワークには驚いたよ。ゾウが踏んでるのかと思ったね」とコメント。
- 1994年、セナの葬儀の際には、棺の付添人の順番にまで心を砕いている[14]。
- 1995年、フェラーリのニューマシン、412T2発表会場(屋外)のそばでアレジと乗用車でスラローム走行を楽しんでいたが、アレジが運転中突如パーキングブレーキを引いたため車が横転。屋根を下にして滑走し、あわやニューマシンにぶつかる寸前で停まった。ちなみに乗っていたのはジャン・トッドの車であった。
- 1996年、予選の結果が悪かったところに、「この後どうされるつもりですか?」とテレビ局からインタビューを受けて、「ホテルに帰ってオナニーかセックスして寝るだけだよ!」と答えてそのVTRを放送不能にした。
1997年鈴鹿、自らの引退会見の数日前、ベルガーの来季の去就を巡ってパドックではさまざまな憶測が乱れ飛んでいた。フェラーリのアーバインはアレジに呼び止められ、「エディ、大変だ。すぐにピットへ帰れ」と言われ、急いで自分のピットへ帰った。すると、そこにはフェラーリのレーシング・スーツを着て報道陣に囲まれ、シューマッハと談笑しているベルガーの姿があった。これはもちろんベルガーの発案によるジョークであった。- 1997年最終戦で引退レースであるヨーロッパGP、最後だから、と決勝日のドライバーズパレードのトラックの運転手を引き受け、荷台の上のドライバーたちが笑顔で愛嬌を振りまいているところ、突然急ブレーキをかける[15]。現役時代最後の悪戯。
フジテレビの中継でピットレポートを担当していた川井一仁とは、個人的な交流も深かった。その川井から番組のアシスタントとなった有賀さつきを紹介された際、「でかした、カズ」と言うや否や、初対面である有賀をいきなり口説き始めた。それ以外にも深夜、同番組の中継スタッフが打ち合わせがてらの飲み会をしているホテルの部屋に突如ベランダ伝いに侵入してきたベルガーは、「リサ(当時、番組のアシスタントをしていた平子理彩)の部屋はどこ?」と尋ね、スタッフが部屋番号を教えると、またベランダ伝いにその方向へと消えていった。- F1の組織化・商業化が進み、ドライバーの没個性が嘆かれる時代に、かつての大らかなレーサー気質を受け継いだ存在として、その悪ガキぶりはチームやメディア関係者に愛され大目に見られていた。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | シャーシ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | 17 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1984年 | ATS | D7 | BRA | RSA | BEL | SMR | FRA | MON | CAN | DET | DAL | GBR | GER | AUT 12 | NED | ITA 6† | EUR Ret | POR 13 | NC (22位) | 0 | |
1985年 | アロウズ | A8 | BRA Ret | POR Ret | SMR Ret | MON Ret | CAN 13 | DET 11 | FRA Ret | GBR 8 | GER 7 | AUT Ret | NED 9 | ITA Ret | BEL 7 | EUR 10 | RSA 5 | AUS 6 | 20位 | 3 | |
1986年 | ベネトン | B186 | BRA 6 | ESP 6 | SMR 3 | MON Ret | BEL 10 | CAN Ret | DET Ret | FRA Ret | GBR Ret | GER 10 | HUN Ret | AUT 7 | ITA 5 | POR Ret | MEX 1 | AUS Ret | 7位 | 17 | |
1987年 | フェラーリ | F1/87 | BRA 4 | SMR Ret | BEL Ret | MON 4 | DET 4 | FRA Ret | GBR Ret | GER Ret | HUN Ret | AUT Ret | ITA 4 | POR 2 | ESP Ret | MEX Ret | JPN 1 | AUS 1 | 5位 | 36 | |
1988年 | F1/87-88C | BRA 2 | SMR 5 | MON 2 | MEX 3 | CAN Ret | DET Ret | FRA 4 | GBR 9 | GER 3 | HUN 4 | BEL Ret | ITA 1 | POR Ret | ESP 6 | JPN 4 | AUS Ret | 3位 | 41 | ||
1989年 | 640 | BRA Ret | SMR Ret | MON | MEX Ret | USA Ret | CAN Ret | FRA Ret | GBR Ret | GER Ret | HUN Ret | BEL Ret | ITA 2 | POR 1 | ESP 2 | JPN Ret | AUS Ret | 7位 | 21 | ||
1990年 | マクラーレン | MP4/5B | USA Ret | BRA 2 | SMR 2 | MON 3 | CAN 4 | MEX 3 | FRA 5 | GBR 14 | GER 3 | HUN 16 | BEL 3 | ITA 3 | POR 4 | ESP Ret | JPN Ret | AUS 4 | 4位 | 43 | |
1991年 | MP4/6 | USA Ret | BRA 3 | SMR 2 | MON Ret | CAN Ret | MEX Ret | FRA Ret | GBR 2 | GER 4 | HUN 4 | BEL 2 | ITA 4 | POR Ret | ESP Ret | JPN 1 | AUS 3‡ | 4位 | 43 | ||
1992年 | MP4/6B | RSA 5 | MEX 4 | 5位 | 49 | ||||||||||||||||
MP4/7A | BRA Ret | ESP 4 | SMR Ret | MON Ret | CAN 1 | FRA Ret | GBR 5 | GER Ret | HUN 3 | BEL Ret | ITA 4 | POR 2 | JPN 2 | AUS 1 | |||||||
1993年 | フェラーリ | F93A | RSA 6 | BRA Ret | EUR Ret | SMR Ret | ESP 6 | MON 14 | CAN 4 | FRA 14 | GBR Ret | GER 6 | HUN 3 | BEL 10 | ITA Ret | POR Ret | JPN Ret | AUS 5 | 8位 | 12 | |
1994年 | 412T1 | BRA Ret | PAC 2 | SMR Ret | MON 3 | ESP Ret | CAN 4 | 3位 | 41 | ||||||||||||
412T1B | FRA 3 | GBR Ret | GER 1 | HUN 12 | BEL Ret | ITA 2 | POR Ret | EUR 5 | JPN Ret | AUS 2 | |||||||||||
1995年 | 412T2 | BRA 3 | ARG 6 | SMR 3 | ESP 3 | MON 3 | CAN 11 | FRA 12 | GBR Ret | GER 3 | HUN 3 | BEL Ret | ITA Ret | POR 4 | EUR Ret | PAC 4 | JPN Ret | AUS Ret | 6位 | 31 | |
1996年 | ベネトン | B196 | AUS 4 | BRA Ret | ARG Ret | EUR 9 | SMR 3 | MON Ret | ESP Ret | CAN Ret | FRA 4 | GBR 2 | GER 13 | HUN Ret | BEL 6 | ITA Ret | POR 6 | JPN 4 | 6位 | 21 | |
1997年 | B197 | AUS 4 | BRA 2 | ARG 6 | SMR Ret | MON 9 | ESP 10 | CAN | FRA | GBR | GER 1 | HUN 8 | BEL 6 | ITA 7 | AUT 10 | LUX 4 | JPN 8 | EUR 4 | 5位 | 27 |
太字はポールポジション、斜字はファステストラップ。(key)
† : ATSチームが1台エントリーとしてシーズンに参戦したため、2台目の車両で出走したベルガーにはポイントが与えられなかった。
‡ : ハーフポイント。レース周回数が75%未満で終了したため、得点が半分となる。
脚注
^ このレースではタイヤが勝負を左右し、多くの他チームが使用していたグッドイヤーは磨耗が激しく複数回の交換を余儀なくされたのに対し、ベネトンが使用していたピレリの磨耗は少なくタイヤ無交換が可能だった。
^ この年、誕生日に何が欲しいかとジャーナリストに聞かれた際に、「ホンダエンジン」と答えたほど。
^ 『1991年フジテレビF1総集編』など
^ 一例として、1992年にホンダがミスファイアリングシステムを実戦投入した際、ベルガーは事前に説明を受けていたにも関わらず「エンジンがミスファイアしている。これは故障に違いない」と主張して同システムをオフにさせたことが挙げられる。
^ この年以降、2013年まで20年間、フェラーリは毎年必ず1勝以上することとなった。
^ ベルガーにとっては、かたや同胞、かたや元僚友であり無二の親友を同時に失うという、まさに暗黒の週末となった。
^ ゲルハルト・ベルガー、シングルシーター委員会の新議長に就任 - F1 TopNews・2011年12月12日
^ ドメニカリがシングルシーター委員会委員長に - ESPN F1・2014年12月6日
^ ベルガーがスキー事故で骨折 - ESPN F1・2014年3月10日
^ 「今日の一枚」カッコ良すぎるラウダ、ベルガーに想う偉大な小国 - オートスポーツ・2014年6月25日
^ DTM運営組織のITR e.V代表が交代。ゲルハルト・ベルガーが新チェアマンに就任 - オートスポーツ・2017年3月22日
^ マルコム・フォリー『セナVSプロスト-史上最速の“悪魔”は誰を愛したのか!?』五十嵐哲訳、三栄書房、2010年、pp.305-306。
^ このヘリの同乗者だったジョセフ・レベラーによれば、ベルガーはケースの中身をバラまくつもりだったが開けられなかったため放り投げたという。その時セナは副操縦士として着陸操作に集中していたため、この悪戯には気付いていなかった。
^ 土壇場でプロストが後ろに。セナ葬儀のエピソードTOP NEWS 2014年5月17日
^ 『F1グランプリ特集1997年12月号』ソニー・マガジンズ、1997年、p.109。
関連項目
- モータースポーツ
- ドライバー一覧
- F1ドライバーの一覧
外部リンク
Berger Logistik - ベルガーの運送会社- 33 Rennen Formel 1
- Porträt Gerhard Berger
- Nie Weltmeister, aber am meisten ...
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